
「なんでこんな当たり前のこともできないの!!!???! 私何回も言ったでしょ!!!」
くたびれきった60代くらいの女性が、皺クチャの70代後半くらいの母親を怒鳴りつける光景を街で見かけ、何か呪いのようなものを感じた。
年末に電車に乗っていると、今度は思春期の長男が上着を着ないことを延々と怒る父親に出くわした。大船くらいから池袋まで小一時間、その光景はずっと続いた。上着を着ないのは冬の電車は暖房で暑いからかもしれない。もはや公共の場で延々と怒ってる父親の方が迷惑だよと思ったタイミングで、母親と長男は少し離れた場所に移り、父親は延々と独り言を言っていた。一緒にいた友人とその話をすると、実は父親は肘で次男の頭を壁に押さえつけていたのを見たという。しかも三人は同じスポーティーな髪型だったそうだ。彼らがこの絶妙に逃げ場のない地獄から解放される日が来ることを願う。
伊藤瑞貴氏の待望の新作である。舞台『良い女と、書いて。』は、母親を失った娘が、一人親である母親との愛憎の半生を振り返っていくという一人芝居である。以下ネタバレ全開で行くが、まだ見る予定がないのであればこのままぜひ読んで欲しい。
この物語において母親は、娘の感情に全く寄り添おうとしない。娘が母親のためにエプロンを編めば出来が悪いと嗤い、友達ができる度にブスとは付き合うなと関係を絶たせ、会社で恋人を作っていないか調べるためにストーカーまがいの行動まで厭わない。娘の人生は母親によって支配されている。
しかし予期せぬ事故で母親を失った娘は、その支配から免れて意気揚々と遺品整理をするところから物語は始まる。しかしそう簡単に感情は整理がつかず、がらんどうの家に残ったアルバムを見ることで、母親との愛憎の日々が思い出されていく。
今回の作品では過剰な演出を廃し、イスが一つだけの舞台で一人二役を演じきる。最初は落語や講談のように、同じ顔が演じ方で全く違う人間に見えてくる表現力に圧倒される。白眉は、終盤の車内での壮絶な言い争いである。ガン詰めする母親と、パニックになって泣きじゃくる娘を切り替えまくる芝居はクライマックスにふさわしい盛り上がりを見せる。23人格を持つ殺人鬼の映画『スプリット』の終盤、様々な人格に切り替わりまくるクライマックスを思わず思い出す凄まじさだった。
しかし一人二役の真意は、この二人が実は同じような存在であることの示唆なのではないか。
町山智浩氏は『REVOLUTION+1』について、山上徹也役と安倍晋三役を一人二役で演じるべきだとコメントしていた。また氏は『20世紀少年 最終章 ぼくらの旗』について、最大の敵である「ともだち」の正体は主人公であるケンヂであるべきだとコメントしている。これらは対峙する相手が実は自分自身であるという表現としての一人二役である。本作はまさにそうなのではないだろうか。
この物語のラストは、母親が娘と全く同じセリフを言うというものである。しかしそれは単に気の利いたサゲではなくて、そのセリフで二人が全く同じような存在であることが明らかになり、そして母親もまた娘と同じような追想を始めるのだろうという円環構造にもなっている。
親子とは深く関わらざるを得ない他人である。親は子供が自分の遺伝子の分身であることと、養うという営みにより、人生で最も深く関わる他者になる。
子供にとっては、親という存在が人生で初めて出会う他者である。そしてある時期までは最も深く関わる他者でもある。
このように親子というものは、強制的に人生で最も深い人間関係を築かざるを得ないマッチングシステムであり、結果的に親も子も互いに強い感情をぶつけ合ってしまう。それは愛憎として現れ、この作品ではそのどちらも見ることができる。
結局、親子と言えども他人である。だから、親に期待したって多分思い通りにはならないし、子供も一から十まであなたの言うことは聞かないだろう。
この作品で母親は親の期待に沿うことを第一に生きてきて、出産時の夫の蒸発で物凄い掌返しに遭ったのだろう。だからこの子だけは、絶対にそんな思いをさせない。絶対に「間違い」のない人生を送らせてあげるんだと思い、単身、子育てに奮闘したのだろう。
私自身社会人になってから、親の偉大さに脱帽した。生きててこんなに嫌なことがあるのに、それでも結婚をして、私を産み、何不自由なく育ててくれた。それはとてつもなく大変なことである。この作品の母親は一人で子育てをした。おそらく実家の援助はなしに。それは本当に大変な苦労だっただろう。
一方娘は恋人からのプロポーズを前に、自身がいずれ母親になることへの恐怖を抱く。一緒に見た知人は「同じ不安を抱える人がいたんだ」と言っていた。私も同じ不安を抱えている。これは結構共通の不安なのかもしれない。
以上を振り返ると、子供が生まれる際には親からの念のようなものを引き継いでいることが分かる。両親からの期待に応えた母親と、その母親からの期待に応えようとする娘。しかしその期待が本人を幸せにすることはなかった。それはもはや呪いのようにも見える。
良い女と、書いて。娘。それは子孫が生まれる限り延々と続いていく呪い。でも、大丈夫。子供を産むことに不安があっても大丈夫。呪いを自覚できたなら、きっとうまくいく。親と上手くいっていないなら、心が落ち着くところまで距離を置こう。そのために稼いで、経済的に自由になろう。稼げる年齢になっているなら、それは親を離れるタイミングなのだと思う。親の希望とは違う人生を歩んでも、決して裏切るわけではない。だってあなたの人生なのだから。素敵な人たちを見つけて、大切にしよう。生まれてくる子供には、いつか辛い思いをさせてしまうかもしれない。しかしある程度の年齢になったら距離をおこう。自分で生きられる年齢になったら、好きに生きさせてあげよう。
YouTube、Netflix、映画館、漫画。積極的に舞台に行く人でない限り、普段「生」のエンタメに触れることはあまりないのではないか。驚くくらいに目の前で人間が情熱を爆発させる。それはきっと物凄いエネルギーをもらえる。
今回の舞台は1,500円という、映画のサービスデーやハードカバーの小説程度の金額で、本格的な生のエンタメに触れることができる。この機会にぜひご覧になられてはいかがだろうか。
伊藤瑞貴という人は、公演の度に体調を崩されている。文字通り、命を削って表現をしている。心配になってしまう。しかも今回は自分でホンも書く情熱のかけっぷりだ。初めてとは思えないくらいに仕上がった脚本だった。あまりに力を入れすぎて、もう今回で引退してしまうのではないかと心配になってしまう。彼女という恒星がこれ以上なく爆発している今この瞬間をぜひ見届けてほしい。
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舞台『良き女と、書いて。』
作・演出・主演:伊藤瑞貴(劇団グラハムヘルツ)
日時:1月21日(土) 16:00〜
場所:APOCシアター
〒1560056 東京都世田谷区桜丘5-47-4
03-6321-7690
予約:https://ticket.corich.jp/apply/202655/005/
配信:https://apoctheater.buyshop.jp/items/68573776
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娘の最後のセリフ「ただ分かって欲しかっただけなのに」がとても心に残った。私も、そこまで深刻な亀裂はなかったのだが、両親とは完全にうまくいっているとは言えない関係だった。社会人になって距離を置いて、うまくいくようになった。その後、一時期家庭のことで深刻な問題が生じ、毎週のように実家に帰って問題修復に努め、なんとか落ち着いた。うちの家族は不完全集団、やっぱり俺がいなきゃいけないな、困ったときは助けなきゃと思った。いずれは実家に帰ることも初めて考えた。
そのあと私は職質に遭い、車に置きっぱなしだった安物の果物ナイフで銃刀法違反の疑いで捕まった。いい年なのに身柄引き受けということで母親にその旨を話さざるを得なくなり、「こんな恥ずかしい息子はいらない。もう二度とこの家に帰ってくるな」と勘当された。次いで父親からは「隙があるからそういうことになるんだ」「怪しい動きをしていたから職務質問されるんだ」と言われた。もういいやと思った。
先日祖母が泣きながら電話をかけてきた。怒りの感情が沸き起こってきた。なんで俺が仲良くしろと言われなければならないのか。分かってほしかった。私の悩みに耳を傾けてほしかった。分かろうとしてほしかった。でもそんなことはなかった。今後もない。いくつになってもそう期待してしまう自分も嫌だから、心に余裕ができるだけの距離を置く。これが私の距離感。
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・「一緒では苦しすぎるが、ひとりでは生きていけない」
1981年公開のフランス映画『隣の女』のセリフ


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